2014.12.1 (mon)
1回表:ウディ・ガスリー わが心のふるさと
ウディガスリー わが心のふるさと
1976年アメリカ製作 148分
監督:ハル・アシュビー
原作:ウディ・ガスリー「Bound for Glory」
撮影:ハスケル・ウェクスラー
音楽:レナード・ローゼンマン
出演:デヴィッド・キャラダイン
ロニー・コックス
メリンダ・ディロン
この映画を第1回目のコラムのお題に選んだ理由は、今年7月にロジャー・ティリソンの墓参りに行った折、ロジャーの奥さんであるジャッキーに案内され訪れた、タルサ市街ブレイディ・アート地区にあるウディ・ガスリー・センターに行き、様々なガスリーに関する資料を見て、彼に興味を持ち始めたからだ。
初めてアメリカ南部を訪れて様々な体験をした僕は、少なからず現地の風土や文化を体感し過去のアメリカのことも軽くではあるがこのセンターで触れた気がする。彼が活躍した1930年代アメリカ大恐慌時代、最もアメリカが貧しかった時代にガスリーはどのように生き、自分の国とどう向き合い接していたのだろう、そんな興味も湧いてきた。
映画の存在を知ったのは帰国してからインターネットでガスリーに関することを調べていた時だった。1976年に作られたこの映画『わが心のふるさと』はDVD化もされているので、早速レンタルしようと近所のTSUTAYAに行ったのだが、何処にも見当たらなかった。店員に聞くもこちらでは取り扱ってないとのこと、じゃあ多くの作品数を取り扱う大型店のTSUTAYAならと思い探すのだがこちらも無い。この映画、結構評価も高く76年度の米アカデミー賞作品賞にもノミネートされた作品なので余裕で見つかると思ったのだが…。TSUTAYAがなければ、数あるほかのレンタル店で探すのだが、結果一緒であった。
あれ、だんだん雲行きが怪しくなってきた。こうなったら購入しようと中古DVD屋、中古レコードショップ、古本屋、タワーレコード、雑貨屋、友人etc…どこに行こうが聞こうが結果一緒。やばいな、citymusicの柳本君に第1回目はこの映画のコラムを書くと宣言した手前、どうしても成し遂げたい。それとこのコラムの連載のきっかけを作ったタルサ旅行の思い出も手伝って、是が非でも初稿は『わが心のふるさと』を書きたかった。
否が応でもDVDを購入して映画を見たい僕はふと思い出した。ガスリーのことをネットで調べてた時に確かAmazonで数本取り扱っていたはずだ。早速Amazonのサイトを開いてみると中古数本を発見、ちょい高値ではあるが販売していた。レンタルだったら数百円で借りれるのになぁ、購入した直ぐにTSUTAYAの発掘良品でレンタル開始てなことになれば目もあてられないなど葛藤してはウジウジ考えても仕方ないと思い、意を決してこのウディ・ガスリーの自伝映画『わが心のふるさと』のDVDを購入したのである。
<ストーリー>
1936年大恐慌時代、オクラホマからテキサス州パンパに一家で移り、看板書きをするガスリーは不満な日々を送っていた。大恐慌と*砂嵐(ダストボウル)で荒れ果てた故郷を残しカルフォルニアに新天地を求め旅立つ多くの人々を見たガスリーは家族を残し彼らを追うように一人旅立つのだが…
映画冒頭にガスリーのエピソードが描かれている。
その中で最も印象的だったのが、娘を無くしたショックで水さえ飲めなくなった近所の夫人をガスリーが優しく諭して助けるシーンがある。近所の人達にひょんなことから占い師をやっていると勘違いされたガスリーは仕方なくその夫人を助けることを引き受ける。夫人の家族は「占い師はおまじないができるんでしょ」と、言わばシャーマンや霊媒師の様にガスリーを見ていた。渋々夫人の部屋に入るガスリーは茫然自失の夫人を目の当たりにすると、不憫に思って彼女のそばに行って手を握りこう言った。
「娘は天国に行ったと思いませんか。神様があなたに心を与えてくださった。知っているでしょう、心が体を使っていることを、神経や筋肉に命令していることを、その腕も手も背中も喉も…死んだら終わりですよ。あなたにはまだ大切な家族がいる」
と、夫人をゆっくり優しく諭していく。文章で書いてもあまりピンとこないと思うが、ガスリーの声や語り口調、説得力のある言葉は夫人に届き彼女は水を飲んだのである。ガスリーはおまじないでもない、ましてや魔術でもないただの言葉で彼女を助けた。ガスリーのこうした人の心を掴む言葉は後に彼の最大の武器になっていく。ガスリー役であるデヴィッド・キャラダインの演技もこのシーンで随所光る部分を見せた。彼は米テレビドラマ『燃えよ!カンフー』で脚光を浴びて以来、自身も中国武術を体得した武闘派俳優である。晩年彼の作品で記憶に新しい映画といえば、タランティーノ作品『キル・ビル』シリーズのキル役。彼は生涯数々のアクション映画に出演した俳優だった。
そんな彼がなんとも優しさ溢れる面持ちで、まるでガスリー本人がこうやってゆっくり夫人を諭していったのだろうと思わせるほどの演技で、この映画のつかみのシーンを見事に演じていた。デヴィッド・キャラダインはこの作品でカンフー俳優の脱却を狙っていた。ガスリーの歌は勿論ギターも吹き替えなしで本人がこなし、当時の南部の人特有の歩き方、牧歌的な喋り方や仕草まで完璧に演じたキャラダインのキャリアの中で、この『わが心のふるさと』は彼の最も重要な作品となった。
この作品の見どころのひとつに映像美が挙げられる。テキサス州を後にしたガスリーはヒッチハイク、貨物列車の無賃乗車、はたまた徒歩でカリフォルニアを目指すのであるが、広大なアメリカ南部を旅するガスリーを撮影監督のハスケル・ウェクスラーは見事に撮影している。荒涼とした砂漠や果てしなく続く道、無賃乗車で乗った列車の屋根からの景色は見ているだけで胸が空く映像なのだが、それだけでは無く、哀愁漂う夕暮れ時やそれに合わせるように旅先で出会った人との別れ、夜道を一人で旅するガスリーの孤独な姿は一抹の寂しささえ感じられ、人物と背景のコントラストが絶妙にこの作品の世界観をより際立たせている。ハスケル・ウェクスラーはこの作品で二度目のアカデミー賞撮影賞の栄冠に輝いた。
この作品の最大の魅力はやはりウディ・ガスリーの半生を描いているところだろう。ガスリーは旅先で出会った人達や、カリフォルニアで南部から移住して来た貧しい労働者と接し多くの影響を受ける。彼の歌が労働者階級や貧しい者に対しての歌が比重を占めるようになったのは、カリフォルニアに渡ったあとからだ。
カリフォルニアは当時南部の人にとって「約束の地」であった。そんな大勢の南部の人達が移住したカリフォルニアは理想とはかけ離れたものだった。大恐慌と砂嵐(ダストボウル)によって痩せこけた故郷の農地を棄て、カルフォルニアの農園で働くことを選んだ多くのアメリカ南部の人達は、カリフォルニアへ行けば仕事もありつけ、それなりに暮らしていけると信じていた。
だが現実はそういった南部の人達を多く受け入れた農園主は、安い賃金で彼らに過酷な労働を強いていた。それでも安い賃金で仕事にありつけた者はまだマシで、何日も仕事に溢れている者はますます困窮し、食うや食わずの生活を送りやがて餓死する者まで出たという。当時カリフォルニアも大恐慌の煽りと南部からの多くの移住者、農業の機械化によって労働力過剰に陥っていた。多くの労働者は農園主や企業側が提示する僅かな賃金で働くしかなかったのだ。
この当時の状況を如実に知ることができる映画で1930年代オクラホマ州からカリフォルニアに渡ったとある一家を題材にしたアメリカを代表する小説家ジョン・スタインベック原作、ジョン・フォード監督の『怒りの葡萄』という作品がある。僕は『わが心のふるさと』を鑑賞したあと、この作品も鑑賞したのだが、両作品とも1930年代のアメリカ大恐慌時代の現状を今に伝える良作である。『怒りの葡萄』でオクラホマ州から惨憺たるカリフォルニアに渡り再起を図るジョード一家のたくましく生きる姿は僕の胸を打った。主人公であるトム・ジョードが最後のシーンで母親と別れる間際にいった言葉が印象に残る。
警察官が俺たちの仲間をなぐっているところ
腹を空かした乳飲み子が泣いているところ
差別や憎しみゆえの争いがあるところ
母さん、ぼくはそこにいるよ
誰かが自分の立場を守るためや
仕事や救いの手を求めて戦っているところ
人が自分で作った作物を食べ、
自分で建てた家に住むところ
母さん、彼らの目をよく見てごらん
僕はそこにいるよ
トム・ジョードが言った一連のセリフのようにガスリーも生涯民衆の立場にたち歌い続けた。カリフォルニアでラジオ番組を持ち、ある一定の成功を収めるガスリーは徐々に名声を得るのだが、あまりにも労働者側の歌が多いガスリーに対しスポンサーは歌の内容を変えるよう圧力をかけた。だがガスリーは自分の意志を貫き、貧しき人の為に歌い続けた。
彼は同じ場所で止まることを良しとしなかった。カリフォルニアで得た名声も、全米各地に流れるラジオ番組の契約も捨て、ガスリーはふたたび旅に出る。全米を周り、より大勢の民衆を救いたい一心で彼はまた列車に飛び乗るのだった。
自分を惨めにさせる歌はきらいだ
自分を負け犬に思わせる歌は…
だれの役にも立たない人間なんて あり得ない
それぞれ年を取りすぎたり 若すぎたり
顔がまずかったり
だが人の不運を楽しみからかうような歌は
わたしには用はないし絶対に歌わない…死んでもだ
わたしは歌で証明する
どんなに不運でも
この世界は君の世界なのだ
長い年月どんなに芽が出なくても
君が白人だろうと黒人だろうとだ
だから わたしは歌を続ける
君自身の誇りを生かす歌を
ウディ・ガスリー『わが心のふるさと』エンド・クレジットよりー
*砂嵐(ダストボウル):第一次大戦後農業の過剰な生産によって引き起こしたずさんな農地開拓が原因とされる。草の除去や未熟な農業技術により、日照りが続いた土は乾燥し 、やがて巨大な土埃となったのがダストボウルである。ウディ・ガスリー・センターにはダストボウルの展示ブースまで設けられ、オクラホマ州及び南部の人達にとって忘れ難い記憶として今も語り継がれている。