2015.8.28 (fri)
6回裏:パイドパイパーハウスの旅
8月19日(水)AM9:30新大阪駅。
お盆を過ぎたにもかかわらず多くの外国人観光客、出張に出向くサラリーマン達で駅構内は蜂の巣を突いたようにごった返していた。シティミュージック・柳本篤くん(通称:お豆)と共に新幹線に乗って、僕自身バンドツアー以来約10年ぶりに来浜するとになった。
長門芳朗氏が主宰していた伝説的レコード店:パイドパイパーハウスが今年8月に26年ぶりに復活、それに合わせて長門氏のご厚意によって店内にシティミュージックの各音源を取り揃えたコーナーを設けていただいた。それをきっかけに横浜赤レンガ倉庫で開催されている『70’sバイブレーション!YOKOHAMA』と銘打ったイベントの一画に設けられた期間限定で復活したパイドパイパーハウスに、長門さん会いたさも手伝って陣中見舞いに行こうじゃないか、と相成ったのです。かくしてお豆と共に「東海道中膝栗毛」よろしく、いざ東へと歩を進めるのであった。(新幹線ですが…)
雷鳴の如く疾走する流石新幹線、瞬く間に新横浜に到着。そこから横浜高速鉄道みなとみらい線を乗り継いで馬車道駅に着いたのは昼の12時を過ぎたあたりだった。駅を出て徒歩で横浜赤レンガ倉庫に向かう僕らを出迎えてくれたのは、横浜ランドマークタワー周辺の広いスペースを生かしたハイソなビル群。
お豆「えらい絵になる街並みでんな。あのCMとかでよう見る観覧車がなんとも言えんアクセントを醸し出してまんな」
ガンホ「せやな、大阪は狭いとこにばんばんビル建てよるからな。こういう感じには逆立ちしてもならんわな」
などと大阪人特有の隣の芝生は青い的会話を地元通行人をよそに道中繰り広げていた。そうこうしているうちにモダンな赤レンガの建造物を発見、あそこに間違いないと歩く速度を速めた。目的地赤レンガ倉庫に到着した僕らはパイドパイパーハウス入店まで軽く何か腹に入れようとなり、館内のロハスなカフェに入ることにした。そこで何かつまむ程度にとベーコンとサラダのライ麦パンサンドとラズベリーソーダのセットを注文した。浪速のおっさん2人テーブルに向かいあってライ麦パンサンドをモフモフ食い、ラズベリーソーダをチューチュー。
ガンホ「ワシ、こんなん飲み食いするの久しいけど結構いけるな」
お豆「はい、ええ感じですわ」
2人してまんざらでもない様子だった。
ガンホ「ところで、スチョリはまだ来とらんの?」
先乗りで東京に行っているスチョリの到着をお豆に聞くと「まだみたいですね。言うてももう時間なんで僕らだけでも先行きますか」と首の付け根あたりを軽く揉みながら、お豆はそう答えた。
赤レンガ倉庫1号館の2階に上がってしばらく行くと、イベントスペース入り口付近に隣接したレコードショップらしきものが見えてきた。かの聖地パイド・パイパー・ハウスに到着。早速店内に入ると懐かしい声が聞こえてきた。
「おおー久しぶり!元気にしてた?」
長門芳郎さんが満面の笑顔で僕達を暖かく出迎えてくださった。
柔和な表情の長門さん。
「どうもお久しぶりです!」
僕は5年ぶりの再会に嬉しく思い、深々と頭を下げた。
そしてお互い元気で再会できた喜びを噛みしめるように熱い握手を交わした。
「ガンホ、久しぶり!」
僕らの来店に合わせて駆けつけてくれた音楽ライターの川村恭子さんとの久方ぶりの再会にも僕は熱い握手で答えた。しばらくしてスチョリも到着。スチョリも少々興奮気味に長門さん、川村さん、各スタッフさんに挨拶。
まぁ積もる話もあるということで僕ら4人、長門さんが用意してくれた店内にある椅子に腰掛け現在の状況など話し合い談笑など交わした。来秋発売予定のロジャー・ティリソン・ジャパン・ツアーの音源の進行などを長門さんに報告して、水田十夢制作の宣伝ポスター諸々一式を渡すと「いい感じに仕上がったね。じゃあ今からポスター持ってみんなで写真撮ろうか」と提案してくださった。そしてその写真をすぐさまTwitterにアップしてくださった迅速な対応に恐れ入谷の鬼子母神、只々感謝の言葉しか思い浮かびませんでした。
この日、平日にもかかわらず多くのお客さんに快く対応する長門さんは本当にレコード少年そのものでした。5年前にお会いした時、腰の容態が芳しくないと仰っていたので、ちょっと心配していましたが、好きな音源に囲まれて跳舞する長門さんを見て安心しました。雑誌『SWITCH』で長門さんがパイドパイパーハウスについて書いた記事の文末にこんなことが書いてあった。
“期間限定ながら26年振りに「パイドパイパーハウス」が復活することになり、ワクワクしている。しかし、一方で、全国各地にあったレコード店が相次いで看板を下ろしている状況を見聞きする度、胸が痛む。今回、久々に店頭に立ち、お客さんと接する中で、絶滅危惧種と言われているレコード店に再生への道はあるのか、そのヒントを見つけたいと思う”
長門さんのレコードへの愛着、音楽への深い造詣を鑑みて、長門さんの前述した憂いは察して余りある。
しかし今回のパイドパイパーハウスの復活は、その憂いを払拭するかのように多くのレコードファンやアーティストが店に訪れ賑わっている。ハース・マルティネスの限定7インチ・アナログ盤を購入したお客さんと笑顔で接している長門さんからそういった憂いた表情は微塵も感じなかった。長門さんの憂いはひょっとしたらもう情熱に変わっているかもしれない。
そんな長門さん監修のもと制作されたハースの7インチ・アナログ盤を片手に僕らもレジへ並んでポージング撮影、微力ではあるがパイドパイパーハウスのPRに貢献したのだった。
”いそがしすぎるこの世の中、レコードを探しながらコーヒーでも飲める店があればいい、なんてあれこれ考えつつ創りはじめたのが私たちの小さな店、パイドパイパーハウスです”
僕の生まれ年である1975年に産声を上げたこの小さなレコード店は音楽を愛する人々の憩いの場所だった。販売だけではなく多くのアーティストと数々の作品にも携わり、そしてのちにミュージシャンとしてデビューする若い世代にも影響を与え続けたパイドパイパーハウスは1989年、80年代後半から始まる激動の世から呑まれることなく静かに幕をおろした。
それから26年が経ち、レコードやCDに代わるあらゆるコンテンツが混在するなか期間限定で復活したパイドパイパーハウスはある意味啓示的な印象を受ける。長門さんの情熱は少なからずレコードショップ復権の第一歩に少なからず影響を与えることは間違いないと思う。店内に吊るされた、当時パイドパイパーで飾られていたハーメルンの笛吹き男が彫ってあるレリーフ看板が、それを暗示するようにゆらゆら揺れていた。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ別れの時が来た。外まで見送りに出てきてくださった長門さんと惜別の挨拶を交わし僕らは赤レンガ倉庫をあとにした。長門さん、まだまだ現役でこれからも若い世代に影響を与え続けてください。そしてお元気で、またお会いするのを楽しみにしております。
さて、横浜に来たついでと言っちゃあなんですが、帰る時間も少し余裕があったので横浜中華街に行くことになった。横浜は何度か来てるのだが、まだ中華街には足を踏み入れたことはない。じゃあじゃあ、行きませう、行きませう、ということになり意気揚々、中華街に繰り出したのだった。もうすぐ夜の帳が下りる中華街からネオンがポツポツと灯りだした。どこからか細野晴臣氏の「北京ダック」が聞こえてきたような気がした。
横浜 光る街
火が昇る
まるで夢の中
この中華街(チャイナタウン)
辺りは 火の海
−細野晴臣「北京ダック」
(次号へつづく)