2017.08.04 fri

 

 

**第1章:アルベルト・K・ディック**

 

 

「あっ..あ。ど...どない、なってんねん?」

 

それはまったく生気を帯びない今際の呼吸のようなつぶやきだった。真正面から突っ込んできた対向車の大型トラクタトレーラーを寸でのところでハンドルを切り、正面衝突を回避した辻は安堵と驚愕のせいかハンドルに額をあずけうなだれていた。急なハンドル捌きと急ブレーキでタイヤの焦げた微かな臭いが漂っている。車内は困惑混乱が渦巻く最中、誰一人として事態を理解する者が居なく口を噤み数秒なのか数分なのか時間の体感を感じる術もなく、それに応じるように沈黙は続き車内は静寂に満ちていた。

 

「辻くん...なにが、あった?な、なにが」

 

沈黙をやぶり、スチョリが口火をきる。

 

「いや、正面...トラック...トレーラー...」

 

事態を把握しようとするスチョリの問いかけに辻は、いまだにハンドルに額をあずけた状態で正気を取り戻す気配が無く、他者に意志を伝えるという行為を放棄した不明瞭な返事しか出来ずにいた。

 

「辻...なにしとんねん!」

 

ヒョンレの言葉は怒気を含んでいた。しかしなぜか笑みを浮かべている。こうした事態にも関わらず。だが場を落ち着かせようとする彼なりの気遣いのような、辻を慮ってのことというのはマネージャー含めバンドメンバーみな理解していた。

 

「と、とにかく...降りて車の状態確かめへん?」

 

「そう...したほうがええですねぇ」

 

ガンホの提案にマネージャーの篤は一つ頷いた。「十夢くんも大丈夫?」とスチョリは急停車の反動で突っ伏した体勢を徐々に立て直しながら十夢の状態をうかがった。助手席の十夢は辻より取り乱した状態で「ちがう...ちがう...ちがう」とただ連呼するだけであった。

 



 

2016年5月8日(日)15:55 阪神高速3号神戸線

 

「辻くんごめん、ラジオ変えてくれへん?」

 

「ええけど、ガンホくんなに聞くん?」

 

「野球、阪神戦」

 

「了解。ところで今年の阪神どない?あっ、今西宮インター過ぎたからもうすぐ甲子園やで」

 

野球に全く興味がない辻の社交辞令にガンホは少し嫌気がさした。

 

「さあ、どないなんやろねー!微妙すわ!」

 

贔屓チームの不調も手伝っていたのだろうガンホは無愛想な返事をした。辻はそれを察したのか、子供じみたガンホの素振りに笑みを浮かべながらラジオのチューニングを合わせ始める。しばらくしてチューニングのノイズは陰を潜め、甲子園に近づいたのか高速から少し離れた球場の歓声とラジオから聞こえる球場のざわめきが徐々にシンクロし始めた。

 

「えーただいま試合は中断しております。阪神甲子園球場阪神対ヤクルト6回の裏。阪神攻撃時にライト席からなにやら投げ込まれたもようです。ここから確認しますと、ライト外野天然芝上にどうも木箱らしき物が...なんでしょうか?ただいま球場整備員が駆けつけて、あっ!いま係の方が手に持ちましたね。えっギター?実況席からですが確認出来ました。ギター?ギターですねぇ。なんと申しますか、フォークギターのようなものです」

 

「ははっ!さすが阪神ファンえらいことするな。こんなことするの阪神ファンしかおらんやろ!」

 

後部座席で車窓に背を預け車座になりながらアコギを弾いていたヒョンレはその手を休め、辻と同様に野球に興味がないにも関わらずこの珍事にはさすがに恐れ入ったのか、休めていた手を叩きながら身を乗り出して、この珍実況を聞きはじめた。

 

「ガンホくん阪神ファンてアコギで応援したり投げ入れたりするもんなんすか?」

 

「おう!そらするよ。もうガンガンに。なぁ、ガンホもやったことあるやろ」

 

十夢の問いかけにスチョリが茶化すように割って入る。

 

「すっ、するかっ!」

 

ガンホはむせ返しながらスチョリに反論した。

 

「しかし贔屓チームの攻撃時に応援するライト席から物投げ込みますかね?しかもアコギて。百歩譲ってトランペットならまだ解りますがねぇ」

 

たしかに試合中フィールド内に物を投げ込むなど言語道断な行為なのは言わずもがな、しかも応援する立場でありながら贔屓チームの攻撃時に物を放り込むなど聞いたことはない。そしてギターでの応援も同じく聞いたこともない。野球の応援には金管楽器や木管楽器太鼓の類と昔から相場は決まっている。学生時代野球部員だった篤のもっともな、一般常識の範疇を越えることのない極当たり前の疑問だった。ツアー移動の退屈な車内は日本球界の聖地で起こったこの珍事のおかげで俄にざわつきだした。

 

「少々お待ちください。ただいま放送席用のモニターで確認にしますと、ライト前列席もしくは中段席でこれと言った"物を投げ込まれた"という行為は確認出来ません。ただライト上段席までカメラは回っていませんので確実な事は言えませんが、おそらくそちらから投げ込まれたかと思われます。ですが解説の吉田義男さん、これは本当に悪質な悪戯ですね。意図も解りかねますが」

 

「ええ本当に意味が分かりません。ライトを守る雄平選手に当たらんでよかったですよ。ごめんなさい、ラジオの前のみなさんは確認出来ませんが、あの、放送席のモニターから見ますとですよ、これ真上から降ったように見えるんです。もしライト後方上段席からですよ、フォークギターのような物を外野に放り込むなんてよっぽどの腕力と肩の力がないととてもじゃないけど出来ないですよ。いわゆる強肩ですよ。次元のちがう強肩ですよ。腕力もずば抜けてるんで強打ですよ。投げ入れたファンの方阪神の外野手にぴったりじゃないですか。阪神入団しませんかな。ははっ!ええ、もちろん冗談ですよ」

 

「さ、さあ試合は後半を迎えようとしております。先ほどから球場内に照明が焚かれています。試合が中断して5分ほど経ち、まもなく午後4を回ろうかというところ。阪神甲子園球場6回....は....し...攻撃....よ...き...」

 

ここでノイズが激しくなり、ラジオから実況が何一つ聞こえなくなった。緩やかに闇が覆う。みなこの時点でどこぞのトンネルに入ったのだと思ったに違いない。が、どうも様子がおかしい。そもそもこの付近にトンネルなどあっただろうか?

 

車内にいる数名が不可解に感じた。やがてラジオのノイズ音も消えた。

 

そしてエンジン音、車内で聞こえていた微かな風を切る外気の音、車内にいるみなの息づかい、音という音何一つ聞こえなくなり限りなく無音に近づいていった。そしてトンネルと思わしき内部もあきらかに違和感を感じずにはいられない体をなしていた。あるはずの天井側面を這うように設置している照明や反射板の類はなく、ただ暗闇が広がっている。出口の光も見えない深い闇。

 

いままでは目が慣れて微かに見えていたたあらゆる物の輪郭線も、上下左右の認識も、闇の漆黒、自我さえも、その闇はなにもかも覆い尽くそうとしていた。その闇は寧ろ"無"に近いものだった。しばらく、いや長い時間だったのかコンマ何秒だったのか、過ぎ去った時間の感覚、消失感だけが微々たる自我の認識と不確かな外界をつなぐ唯一のものだった。

 

そしてことは起こった。最初は針の穴ほどの光だった。

 

その光はフェードインから始まる「フィリックス・ザ・キャット」のオープニングのように少しずつ円形を膨張させながら、やがて強烈な閃光を放ち辺りを照らしながら闇を包み込んでいった。幾ばくかの時間が過ぎ車内数名の視力が回復していく。そして光の奥になにやらぼんやりと見え始めたと同時に空気をつんざくクラクションの破裂音が鳴り響き、真正面にピータービルト社製281モデルの真っ赤な大型トラクタトレーラーが突如として現れた。

 


 

辻は咄嗟にハンドルを切る。

 

車体は十時の方向に勢いよく傾き路肩をおおいにはみ出すも、転倒を恐れた辻は舵が利かないハンドルを必死に右へ左へとぶん回し、何とか車体を安定させ最悪の事態を回避した。しかし高速道路に設置してあるはずのフェンスや遮断壁の類に衝突した感触を得なかったのは不思議としか言いようがなかった。ワゴンを運転する辻が一番実感しただろう。

 

普通そのままフェンスにぶつかればワゴン左側は大破破損もしくはフェンスが低い場合、スピードと衝突角度にもよるが、最悪高架からまっ逆さまに墜ち全員即死の憂き目は免れることはなかっただろう。しかしワゴンはこれといった破損もなく無事なのだ。そして阪神高速3号線の路面面積を遙かに越えたワゴンは砂や砂利を巻き込みブレーキを掛け対抗車を避けた地点から数百メートル先の茂みで止まったのである。衝突寸前だった対抗車のトラクタトレーラーも貨車に煽られ蛇行しながら、けたたましいクラクションとともに走り去っていった。

 

助手席の十夢が驚愕のあまり体を振るわせていた。いや、車内にいる全員身動きがとれず自分の生死の判断もままならない状態だった。しばらくして落ち着きを取り戻し、各自この混乱した状況を確かめようと努めた。しかし運転していた辻はショックのあまり、うなだれている状態から立ち直る術をいまだ見いだせずにいた。

 

「と、とにかく車の状態、見てくるわ」

 

ガンホは打ちつけた額を手で押さえながら、スライドドアのロックを解除しドアノブを引いて外に出ようとしたその瞬間「ガ、ガンホくん、ちょっと...待って」と声を震わせながら十夢がその行動を制した。

 

「あの太陽が...」

 

「太陽が?」

 

「真正面なんです」

 

「...?」

 

いまいち合点を得ないガンホが十夢を問いただす。

 

「つまり?」

 

「つまり、簡単な話で僕ら西から東に向かって高速走ってましたよね。あの時間帯は西日が強いんで条件反射で車のサンバイザーを降ろそうとおもったんですが、勘違いで...つまり」

 

「つまり?」

 

「いやだから西に傾いてた太陽がいま真正面ておかしいなと。さっきの反動で車が反転した様子もないし進行方向に向いてるんで...つまり」

 

「つまり?」

 

「つまり、今見てる太陽が...どう見ても日の出のようにしか見えなくて...つまり」

 

「つまり?」

 

「つまり...だから、その、つまり」

 

「おまえらつまり、つまりうるさいねん!さっきからなんの話やっとんねん!」

 

ヒョンレが怒号を発し、この不毛な会話を制した。

 

「もう!そんなことより外見たらわかりますよ!いったいここ何処なんすか!」

 

十夢がやけっぱちになって叫びながら、後部座席と前列を遮って干していた仮眠用のタオルケットをこれ見よがしに引っ剥がした。「へっ?」と気の抜けたつぶやきとともに、辻はさっきまでハンドルに額を預けうなだれていた顔をあげる。スチョリと篤も各々外の状況を見ようと後部座席二列目三列目の右側にひかれたカーテンを開けた。

 

「こんな場所...西宮あたりにありました?」

 

十夢が混乱めいた口調で言った。

 

「あ...あ」

 

赤々と輝く日の出に照らさた風景を見た5人は、絶句に等しい溜息をもらした。それは見まごうことなき現実の風景だった。日本では考えられない水平線が広がり、所々に点在する茂み以外は荒涼とした砂地が延々続く、まさに砂漠といって差し支えない絶望的な風景だった。人工的な建造物も一切無い。ただ微かな救いなのか、一本の命綱のように荒れ地の中央を未舗装路が真っ直ぐと延びていた。

 

「....」

 

いままでの経緯を理路整然に説明できる者は誰一人として居らず、ただ静寂が車内を支配していた。

 

「.....」

 

バンバン!

 

「うわっ!」

 

六人全員声をあげ飛び上がった。

 

バンバン!

 

誰かが後部ドアを外から叩いている。助手席の十夢はあまりの恐怖でサイドミラーで誰が叩いているのか確認することができず明後日の方を見ている。

 

バンバン!

 

「ガ、ガンホ、頼む、カーテン開けて確認してくれ」

 

スチョリはガンホに懇願した。ガンホはまだ閉ざされている乗車口スライドドア側のカーテンを恐る恐る開けはじめた。そして現れたのは金髪のおかっぱ頭に丸眼鏡、鼻したに頭髪と同じく金髪の髭を生やした下膨れの仏頂面した白人だった。ガンホは思わずカーテンを閉めた。

 

「なんで閉めんねん!」

 

スチョリはガンホの肩口にパンチを見舞う。

 

「いや、だって。あれ、ヤバないか?絶対ヤバい奴やで!」

 

たしかに、言われてみれば危うそうな臭いをプンプン漂わしている顔つきだった。みなガンホを責める気にはなれなかった。そして、あーだこーだまごついているその時。スライドドアが勢いよく乾いた金属音とともに開かれた。

 

「しまっ!」

 

ガンホが先ほど解除したロックをかけ忘れたのである。

 

「Is everyone okay?」

 

ドアを開けて間髪を容れず白人の男が叫んだ。車内にいる全員身じろぎも出来ない。

 

「Is everyone okay?」と車内をぐるりと見渡し、また男が叫んだ。みなてんでばらばらに頷く。男は右手にもったギターケースを置いて背負っていた登山用の大型バックパックをおろし、左手で「MIT」とプリントしてあるTシャツの襟をつまんでパタパタと仰ぎだした。そして右手人差し指でガンホを差し「Are you Japanese?」と個別に質問してきたのである。

 

ガンホは最初戸惑いの色を隠せずにはいられなかったものの、男の勢いに押され思わず頷いてしまった。スチョリ、ヒョンレもそれに倣ってか、やはり戸惑いながら頷いた。そして篤、辻と続き十夢の番で「You don't look like Japanese」と明らかに今までと違う質問を十夢に投げかけた。

 

「そ、そうジャパニーズ。に、日本人」と思わず口を突いてでた十夢の言葉を聞いた男は、何故か釈然としない様子で十夢を見ながら深く首を傾げた。「えぇ...」と十夢は自分だけ何か疑われているのを不安に感じ溜息混じりにつぶやいた。男はまたぐるりと車内を見回し沈黙した。

 

「....」

 

そしてしばらく正面を見据えていた男の顔が、口角があがるにつれ仏頂面から満面の笑みへと見る見る変貌していったのである。つかの間の沈黙を破り男が朗々としゃべりだした。

 

「やっぱり、やっぱりや!そうや思ってん。運転手がどう見ても東洋系の顔やもん、ひょっとしたら思たんや。いやーこんなネバダ州の片田舎で日本人に会うとは思わなんだ」

 

(...ネバダ州?)全員自分の耳を疑った。

 

「しゃあけど自分らほんま危ない運転するな。ここは右側通行、慣れてないんは解るけど。自分らなに、あれ、なんちゅうの、GSバンドやろ?積んでる楽器見たらわかるわ。あれ確か何年前やったかな、ジャッキー吉川とブルーコメッツがエドサリバンショー出たん?今年が1971年やから、そうそう3年前や。やっぱり自分らもブルーコメッツに倣って全米進出かえ?」

 

「おっ...大阪弁しゃべってる!」

 

十夢がまた思わず口にした。それを聞いた男はやはり釈然としないのか、先ほどと同じく十夢に向かって首を傾げた。「えぇ...」と十夢が、自分が明らかに人種の疑いをかけられているのに気づき、諦めに似た溜息のようにつぶやいた。

 

(...71年?...全米?)みなこの男の言っていることが何一つ理解出来ずにいた。

 

「ところでみなさん何処行きはりますのん」

 

という男の問いかけにマネージャーの篤は「と、東京です」と困惑しながらこたえた。

 

「トーキョー?トーキョーなら逆でっせ?そうか、道迷って、だからあんな危ない運転を。よっしゃここは一つ乗せてもらう代わりにワシが運転しちゃる」

 

(...誰も乗せるとは一言もいってない)みなの揺るぎない心の叫びだった。

 

「あっ申し遅れました、わたくしアルベルト・K・ディックと申します。ここでは<アル>と呼ばれてますが、大阪住んでた時はなんかよう知らんけど「アベ」て呼ばれてましたわ。どちらでも好きな方で呼んでおくんなはれ。ほなロサンゼルスのリトルトーキョー目指してぼちぼち行きましょか」

 

この先の波乱を予見するかのようにつむじ風が辺りの砂や乾草を巻き込みながら、ゴーゴーとうねりをあげ不気味に吹きすさんでいた。

 

 

(つづく)


 

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