2018.07.28 sat

 

 

**第12章:ウロヴォロス**

 

 

「消えた!」

 

ハンカチで額の汗を拭うトニーは狼狽した様子を露わにした。バーのマスターはその驚愕の声にあきれたのか、ため息をつきながらバカラが並ぶグラス棚のレコードプレイヤーに針を落とした。ウッドベースとピアノの不規則なフレーズから始まるマイルスの「So What」がグラスと共鳴するように真空管スピーカーから流れてきた。

 

「ああ、カリフォルニアの州境で検問していた群保安官の報告によると、大型のトレーラーが突っ込んできて突然目の前で消えたらしいんだ」

 

「冗談はよせよ、ルパード。そんなことがこの世の中で起こることはないんだぜ!」

 

「んんっ!...」

 

バーのマスターが声の調整がきかないカウンター際のトニーに対して咳払いをした。ルパードはトニーとは裏腹に声を潜めながら冷静沈着に話を続けた。

 

「いや、俺も最初疑ったんだが複数の人間が目撃したらしい。それに何年か前にケチな売人を追ってデスバレーくんだりまで行ったとき、世話になった保安官から直接聞いた話だ。彼はそんな荒唐無稽な嘘をつくような男じゃないということは、この俺が一番理解している」

 

ルパードはそう言うとスコッチの入ったグラスを少し傾け、氷が溶けてできた対流をじっと見つめた。

 

「じゃあ、かなり信憑性がある話なんだな」

 

トニーはバーのマスターに目をやりながらルパードに言った。

 

「ああ、俺はそう信じているよ。しかし話を聞いた時は驚いたよ。ポーター保安官もFBIなら何か解ると思って、俺に直接連絡してくるんだからな」

 

ルパードはグラスに口をつけ、スコッチを舐めるように飲んだ。

 

「お前が睨んだ通り、中将の息子はアーパの軍施設に務めていた。お前が掴んだ情報によるとカルテルと接触したアーパの正規研究員のなかに中将の息子が居たことで、お前は中将の息子がアーパに所属していると踏んだ。その予想は見事ビンゴというわけさ。そしてなんらかの理由で研究施設から出た中将の息子はそのトレーラーに…」

 

ルパードは再びグラスに口をつけ残ったスコッチを飲み干した。そして深く息をつき、ルパードは話を続けた。

 

「あと、中将の息子が所属しているアーパの件だが...。トニー、アーパの存在のことはだいたい知っているな」

 

「あのアイクが...ドワイト・D・アイゼンハワーがスプートニク・ショックでNASAと同時期に立ち上げた組織だな。宇宙開発に遅れをとった合衆国が焦って設立に踏み切った」

 

「あの人類初の人工衛星で合衆国はソ連に対して軍事戦略面で不利な立場に立たされた。今ではうちが一歩リードしてはいるがね。なんせ月に行ったんだからな」

 

ルパードはマスターの方を見ると、グラスを掲げスコッチの追加の催促をした。

 

「アーパの歴史勉強はこのぐらいにして、トニー、そのアーパに外郭団体が存在しているのを知っているか?」

 

「いや、それは初めて聞く。そんな団体は聞いたことがない」

 

「そうだろうな。表向きはアーパの研究部門の一つとして組み込まれてはいるが、実際の管理運営はセントラル・エレクトロニクス社が実権を握っている。ようはアーパを隠れ蓑にして軍事研究を行なっているわけだ。中将の息子もそこで研究に携わっていた」

 

「あの大手家電メーカーのセントラル・エレクトロニクスがか?」

 

トニーが怪訝そうにルパードを見た。

 

「そうだ。アーパに対する莫大な献金で可能にしたんだろう」

 

「なるほど、アーパの秘部というわけか。だから名簿に名前が無く、フランク中将が部局に詰め寄っても追い返されたんだな。しかしよく調べたな、ルパード」

 

「ああ、財務省IRSの堅物連中を説得するのに一苦労したよ。だが財務省長官のスキャンダルをちらつかせたら、やっこさん簡単に白旗を揚げやがった。フーバーのおやっさんの趣味がここで活かされたというわけだ」

 

追加のスコッチを受け取ったルパードは何かを思い出したのか、ほくそ笑みながらまたグラスに口をつけた。

 

「おたくらも好きだねぇ。まぁ、フーバー長官の政治家、官僚のスキャンダル収集はCIAでも噂にはなっているが。明日は我が身か......」

 

トニーはあきれた様子でかぶりを振った。

 

「IRSから拝借したセントラル・エレクトロニクス社の財務諸表を調べると、ダントツでグルームレイク空軍基地に資金が流れている。俺はそこに中将の息子が研究に携わっていたと踏んだ。そして運良くポーターの連絡が来て俺は確信したんだ。中将の息子...アルベルト・K・ディックは何らかの軍事機密を持ち出し、そしてグルームレイクの連中が敷いた包囲網を突破した。しかしグルームレイクの連中の誤算は人員が不足した状態で検問をしたせいで、群警察及び民間の警備会社に頼らなければならなかった。そのおかげでことの顛末が俺の耳にも入ったというわけさ」

 

ルパードはそう言いながら、グラスを揺らし氷を転がした。

 

「しかし、その検問で起こったことなんだが、大型トラクターごとどうやって消えてみせたんだ。そのポーターの話からすると何かトリックがあるように思うんだが...」

 

「それなんだがな、トニー。おそらく、そんな芸当ができるのは世界広しといえど中将の息子ぐらいだろう。中将の息子はマサチューセッツ工科大で量子力学を専攻していたそうだ。そして<シュレーディンガーの猫による波動力学の応用>という論文を発表したんだが、その論文で一時学会が蜂の巣をつついたように騒いだらしい」

 

「ほう、武闘派で名を馳せた中将とは真逆の存在だな。しかし、なんだかややこしい論文なんだろうな。そのシュレーディンガーの猫とやらは...」

 

「ああ、確かに。俺も学者じゃないんで詳しいことは解らないんだが少しばかり説明すると、箱に一匹の猫を入れるとしよう。箱の中には一定量のラジウムと放射能測定器が設置されている。ラジウムからアルファ粒子が出る確率は50パーセント。そしてアルファ粒子が出た瞬間、放射能を測定した機器によって箱の中に仕掛けられた装置が作動し、青酸カリが入った瓶が割れ有毒ガスが発生する。当然猫は死に至るんだが、しかしアルファ粒子が出ない場合、猫は死なない。つまり猫が死ぬ確率も50パーセントというわけだ。ここまでは解るな、トニー......」

 

ルパードが顔色を伺おうとしてトニーの方へ振り向く。しかしトニーは、ルパードの話に構うことなくバーカウンターでマティーニを飲むブロンドの女性をじっと見つめていた。

 

「おい、あの女俺好みだ。シャーロット・ランプリングも目じゃ無いぜ」

 

「お前な...」

 

ルパードはあきれながら言った。

 

「はは、冗談だよ。話はちゃんと聞いている。こうでもしないとCIAはやっていけないぜ。なんせ世界が相手なんだからな」

 

トニーがしてやったりの顔をしながらビールを飲み干した。

 

「すまない、話を続けてくれ」

 

「ああ。このエルヴィン・シュレーディンガーの思考実験で言いたいのは、量子のようなミクロの世界とマクロの存在であるこの物質世界がお互い干渉するのかということを言いたいんだ。量子の世界では思考実験のように猫の生死が同時に存在する世界らしい。つまり、さっきラジウムからアルファ粒子が出る確率が50パーセントと言ったんだが、その現象は量子力学の見地からすると、出る出ない関わらずどちらも100パーセント存在する。すなわち、確率如何の話ではなくどちらの現象も"重なり合っている"状態なんだ。しかし巨視的に見たとき、我々の目から見た猫の生死は明白で、箱を開けると生きていながら死んでいる猫なんか存在しない」

 

「ちょっとまて、話が全くみえてこない。ルパードいったい何が言いたいんだ」

 

トニーが眉間にしわを寄せ言った。

 

「中将の息子はこれを具現化した。つまり、ここからは専門的になるので説明できないんだが、この思考実験を元にある実験に成功したらしい」

 

「で、なんだその実験とやらは…」

 

神妙な面もちでトニーは言った。

 

「物質瞬間移動の実験。SFでいうところのテレポテーション......」

 

「......」

 

「さっき言った検問のトリックだが、こうも考えられないか。検問を突破できず検挙されたトレーラーと、かたや検問などはなから無くて、そのまま何事もなく走りすぎたトレーラー。この二つの事柄は量子力学的に考えると両方存在する事になる。だとして、その事柄の後者を選択できたとしたら.....中将の息子はシュレーディンガーのパラドックスを応用した物質の瞬間移動で検問を突破した。"神はサイコロを振らない"と提唱したアインシュタインの理論を見事実践してのけたんだ」

 

「ということは......しかし、そんなことを実現可能にできたんなら......」

 

「ああ、だから学会は鉄火場のように騒いだ。しかし権威ある学会がこれらの論文、実験データを封殺した。そして中将の息子をまるで地動説を唱えたガリレオのように弾圧した。これはあくまで俺の推測なんだが、この学会の騒動もセントラル・エレクトロニクス社が噛んでいると俺は踏んでいる。中将の息子を追放するように学会をけしかけ、そして奴らはデータと共に中将の息子を囲った」

 

ルパードが一息つくように、くわえたジタンに火をつけた。

 

「そしてアーパで完成した兵器、この場合兵器といっていいのか解らないが、それを使って検問で待ちかまえていた兵士の前でトレーラーごと消えてみせた、と言うわけか」

 

トニーがブロンドの女を見ながらそう言った。 

 

「ああ、その兵器というのか装置というのか、それが麻薬カルテルとの接触に深く関係していると俺は考えている。俺の報告は以上だ。次はトニー、お前の番だ」

 

ルパードは横目でトニーを見ながら言った。

 

「ああ、あまりめでたい報告ではないんだが...アーパの研究員と接触を計った麻薬カルテルの件なんだがな、これがけっこうなお相手で......」

 

トニーは俯きながら、白髪交じりの鬢を手櫛でなぞるように触れた。

 

「ルパード、ベレシアという中南米の小国は知ってるな?」

 

「たしかキューバ革命に触発され、何年か前に独立した国だったな?」

 

「そうだ。そのベレシアの革命に一役かった男がいるんだが.....」

 

「まさか!」

 

ルパードは驚愕の表情をしながらトニーに振り向く。

 

「そのまさかさ。パブロ・エスター...奴の麻薬カルテルだ」

 

ルパードは固唾をのんだ。

 

「奴は自分の国そのものを動かしている存在なんだぞ。こないだロスの麻薬生成プラントを検挙したが、シールズ一個中隊を投入してやっと制圧したんだ。まさか、よりにもよって接触した相手が......」

 

「ああ、これは確かに厄介な相手だ。しかし事実なんだ。この件は俺たちだけで内密に動いている。ことを荒立てない為とはいえ、俺たち二人だけでは少々荷が重い案件だな」

 

トニーは再びハンカチで額を拭った。

 



 

「ホドリコ、よく無事で帰ってきてくれた」 

 

パブロがスコッチをグラスに注いだ。

 

「.........」

 

「お前とは古い付き合いだ。妹のマリアの面倒もよく見てくれたな」

 

「.........」

 

「覚えているか、食うのにやっとだったあの頃。俺とお前で村のサトウキビ畑へよく盗みに入ったよな。見つかったとき死ぬほど殴られたっけ」

 

「.........」

 

「しかし、こうして俺とお前が生きているのが不思議なくらいだ。何度も殺されかけた。政府軍の拷問、アメリカでのシマの抗争。何人もの仲間が死んでいった。俺もとっくの昔に死んでいてもおかしくないんだが、しかしこうして俺とお前は生きている」

 

「お前だけ生きて帰ってきたことを神に感謝しなくては。天国にいるマリアも喜んでいるに違いない。カティ・サーク33年のスコッチだ。さあ、遠慮なくいってくれ」

 

ホドリコが一点を見ながら俯き、動こうとしなかった。パブロがグラスを持ちホドリコにスコッチをすすめた。

 

「さあ......」

 

ホドリコがグラスを受け取りおもむろに口をつけた。

 

「神よ......」

 

パブロがつぶやく。そして胸の前で手を組んだ。

 

「心正しき者の歩む道は、心悪しき者の暴虐によって行く手を阻まれる。さまよう盲目の兄弟の手を引く者は幸いなり。彼こそは真に偉大な迷い子達を救う羊飼いなり。よって我は、怒りに満ちた復讐をもって我が兄弟を毒し、滅ぼそうとする汝に鉄槌を下すのだ。そして、我が汝に復讐する時、汝は我が主である事を知るだろう」

 

聖書の一節を言いながら、パブロは左脇のショルダーホルスターに手をかけゴールドフィニッシュのコルト・パイソンを抜いた。木製のグリップにはお互いの頭と尻尾を喰い環になった、双頭の蛇が彫金されたコインが埋め込まれている。パブロはコルト・パイソンの撃鉄を右手親指でゆっくりと倒した。

 

「兄さん......」

 

パブロがつぶやく声だった。

 

「兄さん......お願い、やめて」

 

パブロがまたつぶやいた。

 

「マリア......」

 

パブロの悲しげな声だった。

 

「お前には関係ないことだ。しゃしゃり出てくるんじゃない…でも兄さん、ホドリコはこうして...黙れ!こいつはプラントの場所を奴らにバラした。だからこうしてのうのうと生きて帰ってこれたんだ...違う、兄さん。ホドリコはそんなことする...黙れと言っているんだ!サトウキビ畑の時もそうだ。こいつが捕まっていなければ、あんな目にあうことは......」

 

パブロはまるで別の人格と会話をするようだった。その奇妙な光景を目の当たりにしたホドリコはぶるぶると震え、その振動でグラスの氷が乾いた音を立てながら踊った。

 

「お前は許すのか?お前が政府軍の、アメリカ駐留軍に殺されたのは村の奴の密告が原因なんだぞ...私のことはいいの、兄さん。ホドリコを信用して...いや、こいつがプラントの場所をバラしたんだ。奴らを、アメリカの奴らを破滅させる為のプラントを潰したんだ。許さない、許さない、許さない、許さんぞ!」

 

パブロはコルト・パイソンの銃身を握り、グリップの方でテーブルを何度も強打した。ホドリコは恐怖のあまり口元からぼとぼととスコッチをこぼした。パブロはソファから立ち、銃口をホドリコに向けた。

 

「お前が、お前が、お前が......」

 

俯きながらパブロが言った。ホドリコの震える手からグラスが落ちたそのとき、銃口から発砲炎が瞬く間に閃いた。ホドリコの血しぶきを浴びたパブロの顔左半分は、歯を乱杭にしながら、えも言えぬ怒りの表情を浮かべ、そして相反するように右側の顔は、目を瞑り溢れ出る涙で頬を濡らしながら悲哀に満ちていた。

 

「俺はどんなことをしてでも成し遂げる。マリア、おまえを無碍に、ボロ雑巾のように殺したアメリカ人を一人残らず叫喚の地獄へ落としてやる。プラントは無くなった。もう頼みの綱はDr.アルベルトが開発した......」

 

パブロ・エスターは毟るように長い髪をかきわけた。