2018.6.13 wed
短編小説
「窓野」
「しゅ、しゅーりにっき、来ました」
インターホン越しに聞こえるその男の声は異常にうわずっていた。
「はいはい、室外機の修理ね・・・今開けるから」
俺は昨夜の暴飲を引きずるように気だるい声で返し玄関の方へと行った。俺の今の姿はヘインズの肌着にグレーのニットの短パン。だがかまうことはない。この格好で応対しても十分だ。なにも改まって着替えることはない。俺の頭の中でいらん気遣いがよぎったが、即座にそれをはねのけた。俺は皮脂が詰まった頭皮を無造作に掻きながら玄関のドアを開けた。
「しゅっしゅっしゅーりにっ・・・んぐっ、きっ来ました」
なんだこいつ。こいつの対人恐怖症そのもののような話し方は。なんでそんなにビクビクするんだ。しかし変だ。こいつから妙に威圧感を感じる。小肥りだが、何故か顔はやつれ、口を真一文字にしながら頬を小刻みに震わせている。大きく見開いた目は三白眼。それにいつ瞬きをしているかわからないほど、こいつの瞼は微動だにしなかった。グレーの作業着には<エンド電気 窓野>と刺繍がしてある。俺が催促した電気屋の修理工なのは確かなのだが、いかんせんいやに奇妙な奴が来たもんだと内心不快な気持ちが込み上げてきた。
(くそっ、変な奴をよこしやがって…)
俺は顰めっ面をしながら、また頭を掻いた。
「あがっても…よ、よろし?」
男は上目を使って俺に尋ねた。
「えっ、あ、ああ、どうぞ…」
男は持っているメタルブルーの工具箱をガチャガチャ鳴らしながらズックを容易く脱ぎ、踊り場へあがった。
「お邪魔しまん…」
男は確かにそう言った。
(”にゃわ”まで言えよ。このタコ)
俺が関西出身なのか、なぜか故郷のギャグを侮蔑されたような気分になった。男はすり足でそそくさとダイニングを通り過ぎ、ベランダの窓で立ち止まると俺の方へ振り向き、
「たい……ですね。たい……です」とえらく小さな声で言った。
(…たいそう?)
俺にはそう聞こえた。何が大層なんだ。俺の態度か?それともこのハイソなマンションのことか?
「たい……ですね。たい……です」
また男が言った。
「……何が大層なの?」
俺は男がなにか不躾なことを言っていると思い、顰めた顔をしながら聞き返した。
「いえ、颱風……颱風ですね。今夜、颱風です。どどどどどっどーと、それはそれは勇ましく轟き、どどどどどっどーとそれはそれは……非常に勢力を増した颱風23号は今夜未明にも関東に上陸する怖れ……」
男は尻切れとんぼのように喋り、ニッと笑いながら俺に軽く会釈をすると、ベランダへと行った。
(なんだ、なんなんだ。気持ちの悪い…)
酒が残った身体により一層不快感がまとわりついた。暫くして男がベランダから出てきた。修理が終わったのだろう。
「しゅっしゅーり、終わり…ま」
「はいはいご苦労様。お茶、よかったら」
俺はあっさりと言いのけた。まぁ、この男とは、これから金輪際会うことはないだろうという安堵感がそうさせたのだろうか。俺はあらかじめ麦茶を入れていた切子細工のグラスを男にすすめた。
「いえ、御構いなく」
そう言うと男はぎこちなく頭を下げ、玄関の方へまたすり足でそそくさと歩いて行った。
やけに蒸し暑い夜だった。この時期に来る颱風前の独特な気候なのだろうか。まだ午後7時なのだが、昨日の深酒がたたり身体中の節々が気だるく、何もする気が起きない。食欲も当然ながら湧いてもこない。俺はおもむろに寝室に行った。壁際の無印の簡素なベッドに腰掛けていると、夏布団から柔軟剤のケミカルな香りが鼻をついた。冷暖房のリモコンを25度に設定してボタンを押した俺は肩から崩れるように横になった。気が遠くなりこのまま深く眠れると思った。
………………
「あ、あつい…」
目が覚めた。冷房からは熱風。
「なんだ、なんなんだよ。全然直ってないじゃないか」
普段からの癖なのか、俺は枕元に置いていたリモコンでテレビを点けようとした。が、一向に点かないので、つい意地になりボタンを何度も押した。すると捕虫器の蛍光灯のような明かりが俄かにテレビから放たれた。
「テレビも…」
俺はテレビも故障しているのだと思った。まだ画面はほの白く青いまま。
……………
目。
……………
「………ああああっ!」
目だった。あの修理工の、瞳孔が微かに動く目が画面に……
「ああああ!」
跳ね上がり目覚めた。夢だった。不快極まりない夢だった。俺はさっき見た夢のとおり、またテレビを点けた。
「今夜未明にかけ、上陸のおそれがある颱風23号の接近によりJRおよび各私鉄電車の…」
天気図を背景にニュースキャスターが原稿を読み上げていた。
「なんなんだ、なんなんだよ。まったく…」
俺は苛立ったのか、無造作に頭を掻きむしった。俺はテレビのリモコンと同じく枕元に置いているスマホの時計を見て唖然とした。あれから10分しか経ってない。しかし夢同様に冷房からは熱風。そのおかげでやけに喉が渇く。俺はスマホを握りしめダイニングの方へ行き、そして冷蔵庫を開けパックの麦茶を取ってそのまま注ぎ口から勢いよく飲んだ。
「どうなってんの?昼間ちゃんと冷風だっただろうに、どうなってんの?」
俺は怒りに任せてスマホの画面をタップした。コールの音が受話器から漏れる。
「あ、もしもしエンド電気?おたくで室外機の修理頼んだハイカラーマンション304号室の八田だけど。おたくねぇ、どういうつもり?たかが室外機の修理でしょ。あんたらそれでもプロ?全然直ってないじゃないの」
俺は怒りに任せてまくし立てた。
「あ、はい。えっと少々お待ちください。ハイカラーマンションの八田さん…と、あれ?…えっと、担当した従業員の名前はお分かりですか?」
「えーなんつったっけ?あっ、作業着に窓野て刺繍がしてあったな。えっ?窓野だよ。窓はベランダの窓…そうそう。野は野原の野」
受話器からガサッという音が聞こえた。応対している従業員が保留をせずに受話器を手で塞いだのだろう。
「主任…」
しかし塞ぎ方が甘いのか、声が漏れ聞こえてくる。
「主任、うちに窓野ていう従業員なんか居ましたっけ?」
「うん?なに?」
「いや、クレームなんすけどね、ハイカラーマンションの八田さん。行かせた修理工が窓野ていうヤツなんすけど、うちにそんな従業員居ましたっけ?」
「な、なんの冗談だ!ま、窓野なんか居るわけねぇだろ!そうか…お前こっちに来てまだ浅いからな。はぁ、思い出したくもないが、あいつ、室外機の設置のときに漏電で死んだんだよ。ちょうど今日みたいな颱風の日、5年前のハイカラーマンションの施工のときだったかな……」
俺は柄にもなくガタガタ歯を震わせた。窓を閉め切っているにも関わらず、颱風の生暖かい風が俺の頬を撫でた。
「ど、ど、ど、ど、」
俺の背後から確かに聞こえる。どどど?なんだ、なんなんだ?
「ど、ど、ど、それは……そ……れ…」
俺は首から下の自由を奪われた気がした。しかし好奇心からなのか、それともあまりの恐怖でそうさせたのか、俺の首は背後を見ようとしてゆっくりと動く。
「ど、どどど、どどどどどっどーと!どどどどどっどー!どどどどどっどー!そーそっそっ、それは、わは、それは勇ましくぅ、うぉえっ……どどどどどっどーと、それはそれは勇ましく轟き、どどどどどっどーとそれはそれは……ひーっ非常おぉぉぁにぃ勢力を増したぁ、た、た、颱風23号はぁ今夜未明にもおぉぉぁ、か、か、関東に上陸する怖れ……」
窓野だった。窓野はVTRの再生と逆再生を繰り返すように激しく、そして無機質に首を上下に振っていた。
「どどどどどっどー!どどどどどっどー!どどどどどっどー!どどどどどっどー!どどどどどっどー!」
どっ…どっ…どっ…どっ…どっ…どっ…どっ…どっ…どっ…どっ…どっ…どっ…