2018.8.5 sun

 

 

 

短編小説

「鍋島」

 

 

BARジェームスは新宿北口の喧噪を掻き分けた先の住宅地でひっそりと営む、俺がその昔足繁く通った行きつけのバーだった。俺は今日、ある伝説のフォークシンガーに会うため、ノートパソコンとレコーダー他のミュージシャンのインタビューを書き殴った手帳を入れたリュックを背負い、足早にジェームスに向かった。新宿北口から程なくして、昭和の残り香がそこかしこに残る、民家が密集した住宅地に着いた。

 

俺は交差点を東に入り、タバコ屋とクリーニング屋の間から見える入り組んだ路地裏に入った。左側二軒目のえらく分厚い木目がくっきりしたバーの扉を開けると、向かって奥の席に友山さんはいた。

 

「鍋島君、お先…」

 

友山さんは俺に囁くような声でそう言うと、にこやかに手を振った。

 

「すいません、少し遅れて…」

 

「いやいや、大丈夫、大丈夫。なんでもない、なんでもない…」

 

友山さんのいつもの口癖だった。俺はその決まり文句というのか、友山さんの独特の口調が好きだった。

 

「マスター、友山さんの、と、隣大丈夫?あとハーパーのソ、ソーダ割り」

 

俺は急いで来たせいで少し息があがっていた。

 

「ああ、まいどいらっしゃい。ハーパーソーダはいつもの濃いめやね?」

 

俺はマスターの懐かしい関西訛りに対して頷いた。

 

「暑かったでしょ?僕も着いたら汗びっしょり」

 

友山さんはそう言いながら俺を隣に座るように手招きした。

 

「いや、この時期はどうしようもないですよ。多分僕のリュックの手帳も背中の汗で波打ってますよ」

 

俺はリュックを下ろし友山さんの隣の席に行き座った。

 

「本当に恐縮です。念願叶ってやっとインタビュー出来るんですね。俺、本当に嬉しくて、嬉しくて」

 

友山さんは俺の高揚した声がおかしいのか、またにこやかな顔をしながら相槌を打った。

 

「いや、別に大したことは喋れないんだけどね…」

 

「いえ、めっそうもありません。あの『十津川フォーク・セレブレーション』でのライヴのことを聞けたらと…」

 

俺は伝説の友山雅人の生きた言葉が欲しかった。今まで数々のライターがそのことを記事にしようとしたが、実現には至らなかった。友山さんは何故頑なにあの十津川郷のことを話さなかったのか、多少疑問に思うこともあったが、でもこうして隣に友山さん本人がいらっしゃる。俺はそれだけでも嬉しかった。

 

「あの日、僕の出番は最後だったけど、ピーカンの天気が嘘のように悪くなってさ。もう雨なんかザザ降りで、当時のマイクなんか今のと違って防水とかないじゃない。もう歌ってる最中、口のあたりがピリピリとしちゃって…」

 

友山さんが申し訳ないように喋りだした。俺はさっきの予感が的中した、汗で波打つ手帳を取り出して友山さんの一言一句を丁寧に書き写した。友山さんも酒が入ってからは、調子よく俺のインタビューに答えてくれた。しかしその内容は、その当時会場にいた人々の証言通りだった。当たり障りのない、今まで数々のライターが記事にした内容だった。俺は機を図り思い切って切り出した。

 

「友山さん…少し突っ込んだことを聞くんですが、今まで友山さんから聞いたことはその時にいらした方々からの証言とほぼ一緒なんですよ。別段おかしなことは起こってもないし、コンサートも悪天候に見舞われましたが、無事に終了しました。でも友山さんは頑なにインタビューを拒否し続けた。俺はそこが引っかかるんです。友山さん自身からあの時のことを聞いたり記事にしたライターがいない。あの大規模の伝説となったフォークコンサートだったのにも関わらず。他の出演者の方々からは快くインタビューを受けてくださったのに、でも友山さんだけが…」

 

「あの十津川郷の最後の曲なんだけどさ…」

 

うつむいている友山さんが口を開く。

 

「あの曲ね、実は…あれね、僕の曲じゃないんだよ…」

 

「……」

 

「あの曲は僕が書いた曲じゃない。当時付き合ってた彼女が書いた曲なんだ…」

 

「あの…」

 

俺は言葉が続かなかった。

 

うん、でもね、あの子コンサート前に事故で亡くなってさ。僕あの時何がなんだかわからない状態で歌ってたんだよ。雨のおかげかも知れないけど、最後の曲で大泣きしながら歌ってた。その後いろんな雑誌のオファーとかあったけど、インタビューで喋ったりしたら、あの子のこと思い出すんじゃないかと思って…本当に辛かったんだ」

 

「す、すいません、いらない詮索を…」

 

俺は返す言葉が見つからなかった。

 

「いいんだよ。なんだか僕もすっきりした。鍋島くんの、僕のことを書いてくれた記事を読んで是非君に聞いてもらいたかったんだ」

 

友山さんがそう言いながら俺の方へ振り向いた。俺はただただ申し訳ない気持ちでいっぱいになり、顔を上げることができなかった。

 

「本当にすいません」

 

俺はそれしか言えなかった。

 

友山さんが俺の肩を優しく叩く。

 

「鍋島くん、僕そろそろ行かなきゃ…」

 

友山さんの身体が徐々に消えていき、カウンター際の壁に貼っているフライヤーや酒屋の伝票が見え始めた。

 

「友山さん……」

 

俺は泣きながら手を伸ばし友山さんの存在を確認しようとしたが、その幻影はするりと俺の手をすり抜けた。

 

「行きはったみたいやな…」

 

マスターがポツリと言った。

 

「あの世ちゅうもんはどんな感じなんやろうな。しかし鍋島くんも、最後の最後にようやったな」

 

「ありがとう、マスター。この時期お店休みでしょ。毎年開けてもらって…本当にすいません」

 

「気にすることあらへんがな。またこの時期に来てや。開けとくさかい」

 

「いえ、俺も今日限り来れそうもないよ。マスター、今まで本当にありがとう……俺もそろそろ行かなきゃ」

 

「さよか、ワシも時期にそっちに行くさかい。安生まっとり…」

 

「ははっ。柄にもなく泣いてらぁ。マスター、また何処かで…」

 

マスターが涙を拭いながら消えて行く俺に手を振ってくれた。