国籍も言葉も違う若者たちとの音楽を通じての交流は
ロジャーの人生にとって大きな出来事だったと思う
長門芳郎 インタビュー
2003年、ロジャー・ティリソンの来日公演の実現に尽力されたのが長門芳郎さんだ。ヒストリー・シリーズ第4章は長門さんとロジャーの出会いのきっかけや来日公演での知られざる秘話など、本邦初公開となるエピソードも満載でたっぷりと振り返っていただいた。
聞き手:柳本篤
70年代前半に巻き起こったスワンプ・ロック・ブーム
−そもそもロジャー・ティリソンというアーティストの存在を知ったのはいつ頃だったんですか?
長門:最初はレコードだよね。1971年のファースト・アルバム『ロジャー・ティリソンズ・アルバム』。あれを聴いたのが72,3年だったかな。発売されて1年は経ってたんじゃないかな。
−当時の日本の状況からすると、ほぼオンタイムに近いですよね。
長門:そうだね、あの頃は日本でもスワンプ・ロックが注目されていてね。レオン・ラッセルが「ソング・フォー・ユー」のヒットで人気あったし、デラニー&ボニーにエリック・クラプトンが急接近したりとか、ジョー・コッカーとマッド・ドッグス&イングリッシュメンとか。もちろんザ・バンド、ジェシ・デイヴィスもそう。
−その一連の流れの中にロジャー・ティリソンがいたわけですね。となるとソロデビュー前の活動、ジプシー・トリップスなどは辿っていったんですか?
長門:そうそう。レオン・ラッセルと一緒にゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズの「ペイント・ミー・ア・ピクチャー」を書いていたとかね。調べてみたらたしかにロジャーの名前がクレジットされてる。60年代の頃はヒット曲のひとつとして聴いていたけど、それがロジャーの曲だってことはあとで知ることになったんだよね。
ダメもとでメールを送ってみたらすぐに返事が来たからびっくりしちゃって
−ロジャー・ティリソン本人と最初に会ったのはいつですか?
長門:アルゾに会ったのと同じ年だったから2003年2月だね。80年代以降はアルゾを含めて<僕が昔から好きだったアーティストのその後>を追跡して、彼らのアルバムを初CD化したり、もし新しい曲がよかったりすると新作の制作を持ちかけて、日本で発売したりしてたんだよね。98年からはドリームズヴィル・レコードも始まってたし。で、それまでにもことあるごとにロジャーの名前に触れる機会があってね。70年代後半から80年代にかけて、J.J.ケールの日本盤がリアルタイムで出てた頃にライナーノーツを書いたりとかしてたの。79年のアルバム『5』にロジャーがビル・ボートマンと書いた「レッツ・ゴー・トゥ・タヒチ」が収録されていたり。でもね、この曲のクレジットには"ロジャー・ティロットソン"って書いてあった(笑)
−ジョニー・ティロットソンになっちゃいますね(笑)
長門:誤植だと思うんだけど(笑)でもこれは絶対ロジャー・ティリソンだと思って。あとは82年のアルバム『グラスホッパー』にロジャーの書いた「ワン・ステップ・アヘッド・オブ・ザ・ブルース」が収録されていたり、翌年のアルバム『#8』のアート・コンセプトをロジャーがやっていたり。で、79年にアメリカに行ったときなんだけど、ナッシュヴィルでボビー・チャールズやタウンズ・ヴァン・ザントらに会うことになっていたので、J.J.ケールにも会えたらいいなと思っていて。当時、彼はナッシュヴィルに住んでるって情報があったから、で、これも偶然なんだけど、行きの飛行機の隣の席に座ったのが、J.J.ケールと仕事をしたことのあるエンジニアだったんだ。そしたら彼がJ.Jは今、出かけていてナッシュヴィルにはいないよと教えてくれたんだ。随分後になって、シアトルで出会ったJ.J.ケールの奥さん、クリスティン・レイクランドのアルバムを出すことになったり、何かと縁はあったんだけど、結局、J.J.ケール本人には会えなかった。その渡米の際、ロサンゼルスでジェシ・デイヴィスにインタビューしたんだよね。そのときジェシにロジャーの消息を聞いてみたの。そしたら「彼は地元のオクラホマでときどきライヴもやってるみたいだよ」って教えてくれて。
−79年当時、ロジャーとジェシの交流は続いていたということですね。
長門:うん、そうだったんだろうね。ロジャーは元気にやってるんだと思ったら嬉しくなっちゃって。そのあと80年代以降の僕はビル・ラバウンティとかP.F.スローン、ジョン・サイモン、ハース・マルティネスとかを捜し出して新譜作ったり来日公演を企画したり。大好きだったミュージシャンへの恩返しのつもりでね。ロジャーのこともずっと気になってて。ジェシに聞いてからずいぶん時間が経ってたから生きてるかどうかもわかんないけど、あるとき、インターネットで<Roger Tillison>を検索してみたら、「rogertillison.com」というのがヒットしてね。
−当時ホームページがあったんですね!
長門:そうそう、そのサイトが見つかったんだ。でもそのときはまだ準備中みたいな感じだったかな。ただ、新作を作ってるというようなことが書いてあったの。えー!新作作ってるの!?と思って、そのサイト宛てにダメもとでメールを送ってみたら、数日後に本人から返事が来たんだよね。メールの差出人のところは「Songdog(ソングドッグ)」っていう名前で。
−すごい展開です(笑)
長門:ほんとすぐに返事が来たからびっくりしちゃって!そこからメールとか電話でやり取りを始めて。そうこうしているうちに事前に新作のデモCDを送ってくれたんだけど、それが『マンブル・ジャンブル』だった。その音源を聴いてみると、やっぱりすごくよかった。泥臭いファースト・アルバムとはまた違った枯れた雰囲気で。
−年齢を重ねた、味わい深いアルバムというか。
長門:これは絶対出さなきゃ!と思って。32年ぶりのアルバムになるわけだし。その頃ちょうどアルゾにも連絡が取れてたんだよね。だからもうこれはアルゾとロジャーに会いに行くしかないなと。
2003年冬、ニューヨークからオクラホマへ
長門:2003年2月の後半だったかな、最初はニューヨークのロング・アイランドでアルゾに会って、そのあと飛行機でオクラホマへ。ロジャーがタルサ空港まで迎えに来てくれてね、それがロジャーと初めて会った瞬間。
−2014年にガンホくんがロジャーのお墓参りに行ったときは奥さんのジャッキーが迎えに来てくれたんですが、長門さんのときはロジャー本人だったんですね。(『キム・ガンホのタルサ旅日記2014』参照)
長門:そうそう、ガンホが日記で書いてたね。僕のときはタルサ空港からまずロジャーの家に連れて行ってもらったのね。平屋のそんなに大きくなかったかな、わりとこぢんまりとした家で。事前にメールや電話でやり取りしてたときに「宿は取らなくていいから。うちに泊まっていけ」って言ってくれてたから、ここに泊まるのかなと思っていたら大きな牧場のあるジャッキーの家に連れて行ってくれたんだよね。二泊くらいしたんだったかな。
−あの広い牧場がある敷地内で長門さんも過ごされたんですね。
長門:そう。ジャッキーの家に着いたときは広くてびっくりしたなぁ。表ゲートから母屋に行くまでかなり距離があるんだ。まるで映画のような世界。でもそんなに長く滞在できなかったから、ロジャーとジャッキーが僕のために歓迎パーティーを開いてくれたんだよね。『マンブル・ジャンブル』を一緒に作ったジュニア・マーカムとウォルト・リッチモンドや友人たちを呼んでね。滞在中には、ロジャーにはインタビューもして、それが『レコードコレクターズ』2003年5月号にインタビュー記事として掲載されたんだ。
ラリーパパをバックバンドにする構想
−2003年4月に『マンブル・ジャンブル』の日本盤がドリームズヴィル・レコードからリリースされました。2月に会った段階で具体的な話はされていたんですよね?
長門:そうだね、それありきで会いに行ったから。日本盤のみのボーナス・トラックとして「ロックンロール・ジプシーズ」を新録で歌ってほしいというのも伝えて。日本では71年のファースト・アルバムと「ロックンロール・ジプシーズ」の印象が特に強いし、なんたって名刺代わりの1曲だしね。『マンブル・ジャンブル』は本国アメリカ、それからオーストラリアでもリリースされるというような話はあったはずなんだけどね。結局日本だけになったみたいだけど。
−来日公演についてもこのときに?
長門:会いに行く前からもう来日公演のことはかなり考えてて。会って話したときも具体的にいつ頃だったらオーケーか、とか。『マンブル・ジャンブル』が2003年4月発売を予定していたから、時間を空けず、6月に来日、ということに。
−ラリーパパをバックに起用するというのも考えてらっしゃったんですか?
長門:うん、僕の中で構想があったんだよね。ちょっと記憶がはっきりしないんだけど、ラリーパパの音源を持って行ってロジャーに聴かせたんじゃなかったかなぁ。ラリーパパのメンバーには「ロジャー・ティリソンが来日して君たちがバックで演奏するんだよ」って伝えていたはずなんだよね。
−メンバーに伝えたときの反応ってどんな感じでしたか?
長門:それがね、誰に最初に伝えたのか憶えていないんだ。メンバーに直接じゃなくて、ドリームズヴィルの小川さんか、当時のマネージャーだった加藤くんを通してだったかな?ラリパのみんなスワンプ・ロック大好きだから、大喜びしてくれたはず。きっとみんなのほうがよく覚えてるんじゃないかな。
−なるほど、では今度全員に聞いておきますね。
会った瞬間、すぐにいい人なんだなって感じたよね
−ロジャーの自宅を訪ねたときに『マンブル・ジャンブル』の日本盤リリース、そして来日公演、さらにはラリーパパをバックに起用して、という構想があったということですが、そもそもなぜラリーパパだったんでしょうか?
長門:基本的に海外のアーティストが来日公演をするときに、日本人がバックを務めるというのは、あまり好きじゃないんだ。過去に成功した例は少ないと思う。でもロジャーとラリーパパの音楽性は共通項がたくさんあったし、メンバーが彼の音楽を大好きだったということがあったから、きっとうまくいくんじゃないかという確信があった。共演する曲を決めて、ラリーパパには事前にみっちり練習してもらっていたし、来日後すぐにロジャーと一緒にリハーサルやって、万全を期したからね。で、本番を迎えて、いざ演奏が始まったら会場のみんながすごく喜んでくれた。ファースト・アルバム以来のロジャーのファンたちがラリーパパとの共演に温かい声援を送ってくれた光景を見て、ホッとしたというか、やってよかったと思ったね。
−初日の大阪公演では「ダウン・イン・ザ・フラッド」のイントロで歓声とどよめきが起こりました。
長門:うん。あの瞬間、つかみはOKと思ったよ。お客さんもノッてたし。ラリーパパのリスペクトあふれる演奏が素晴らしくて、微笑ましくさえあった。
−メンバーが口を揃えたかのように、ロジャーの人柄についてよく話します。長門さんから見たロジャーの人間性はどういうものでしたか?
長門:実際に会うまではファースト・アルバムのあのジャケットのイメージがあったから(笑)気難しいとか無骨な感じなのかなって思ってたけど、空港で会って、握手してハグした瞬間、すぐにいい人なんだなって感じたよね。穏やかで優しくて思いやりがあって。プロ・デビュー前、朝鮮戦争の頃に日本に来たこともあったから、日本に対して特別な想いとかシンパシーみたいなものがあったんだろうね。今も忘れられないんだけど、ロジャーとふたりでウォシタ(Washita)川のほとりで佇んで、ジェシ・デイヴィスの思い出話をしたりしてね。それにネイティヴ・アメリカンの居留地に連れて行ってくれたり。ロジャーと一緒にゆったりとした時間を共有できたことは本当に嬉しかった。
−それが現実でありながら、同時に非現実的でもあるような。
長門:短い滞在期間だったけど、その間、出来るだけ、楽しんでほしいというようなホスピタリティの気持ちが伝わってきて感激した。彼と出会ったひとはみんな感じたと思うけど、やっぱり、何度も言うけど、いい人なんだよね(笑)なんなんだろうね、あの感じ。裏表がなくて打算的な考え方もない。ガツガツした感じが全くないんだ。自分の好きな音楽をマイペースでやり続けてきて、それを認めてくれて受け入れてくれる日本の音楽ファンやラリーパパのような若い音楽仲間がいてくれることをこころから喜んでいた。
−シンプルな発想ですけど、実は一番大切なことかもしれませんね。
ロジャーとは音楽を通じて人間同士の付き合いができた
長門:あとね、ロジャーはちょっとドジというかチャーミングな一面もあってね(笑)
−(笑)ジャパン・ツアーのときの印象的な出来事とかありましたか?
長門:弾き語りのファースト・ステージは「だいたいこれくらいの時間で収めてくれ」っていつも言ってたんだけど、いざ始まってしまうと完全に忘れちゃうんだよね(笑)だから、横浜サムズアップのときは目の前に時計を置いたりとか、合図を出したりとかいろいろやったんだけど、気づかないし、やっぱり忘れちゃうんだ(笑)地元でライヴをやっていたとはいえ、本格的なライヴは何十年ぶりだっただろうから、ちょっと舞い上がってたのかもね。
−それもまたロジャーらしいですね。
長門:最終日の東京公演が終わってから、出演者とスタッフみんなで原宿のイタリアン・レストランに行ったんだけど、そのときにちょっとドッキリというかイタズラを仕掛けたことがあって。ロジャーがトイレに行ってるあいだに「みんな隠れろ!」って僕が言って、ロジャーがトイレから戻ってきたら誰もいない(笑)僕たちは影からロジャーの様子を見てクスクス笑って。そのときの狐につままれたようなロジャーの表情とみんなが現れたときのホッとした笑顔が忘れられないな。
−ステージ写真だけじゃなくて打ち上げの写真も残っていますが、どれもリラックスした表情で。
長門:ロジャーからすると、ラリーパパは自分の息子世代だよね。そういう世代と一緒にできたのもすごく喜んでいた。
−「日本の息子たちよ!」という言い方をよくしていたそうですが。
長門:うん、まさにその言葉に表れてるよね。単なる世代的なことだけじゃなくて自分の音楽を心と体で理解してくれた息子たちと、一緒にライヴができて。もちろんアメリカでも音楽仲間はたくさんいただろうけど、ロジャーと同世代が多かったはずだし、国籍も言葉も違う若者たちとの音楽を通じての交流は彼の人生にとって大きな出来事だったと思う。ツアー中はとても溌剌としていて、だから、日本に来て生まれ変わった、みたいなこともあったかもね。普段は優しくておっとりしてるイメージだったけど、リハーサルではわりと厳しくて、納得いくまで何度もやり直したりね。
−短期間での音合わせ、そしてすぐにツアーという状況もありましたでしょうし。
長門:そうだね。同時に若いラリーパパとの演奏を楽しんでたし、息子と呼んだくらいだから彼らを愛していたんだと思う。だからこのライヴ音源はロジャーにいちばん聴かせたかったよね。
−おっしゃるとおりです。今回のCD化というのは単なる発掘音源というだけでなく、恩返しという意味合いもあるんです。
長門:うん、そうだね。きっと喜んでくれてると思うな。あ、話がまた戻ってしまうけど、まだチャーミングなエピソードがあった(笑)
ジャパン・ツアーが終わってからもちょくちょく連絡は取ったりしていて。クリスマス時期にプレゼントなんかもよく送ってくれたね。
−スチョリくんも同じようなことがあったと言ってました。
長門:クリスマス前に「楽しみに待っててくれよ!」なんて、メールが届くんだよね。でも何も届かないから、お礼のメールも書けなくて。「届かないけど」ってメールすると、「アレ?おかしいな」って返事が来て。それで2月くらいになって、ようやくパッケージが届いて、ネイティヴ・アメリカンの手作りのブレスレットとか、キーチェーンとかのプレゼントが入っていて。あれって、船便だったのかな(笑)ロジャーとは音楽を通じて人間同士の付き合いができたのかなって思う。まだまだ一緒にやりたいこともあったので心残りもあるけど。僕にとっていつまでも特別な存在だね。
(2016年3月26日/電話インタビューにて)
70年代初期から後期にかけ、シュガー・ベイブ(山下達郎/大貫妙子ほか)、ティン・パン・アレー(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)のマネージャーとして、コンサートやレコード制作に携わる。70年代末~80年代末には南青山の輸入レコード店パイド・パイパー・ハウスの店長/オーナーを続けながら、ピチカート・ファイヴのマネージメント、海外アーティストのコンサートをプロデュース。ヴァン・ダイク・パークス、ドクター・ジョン、リチャード・トンプソン、フィービ・スノウ、ダン・ヒックス、ジョン・サイモン、ローラ・ニーロ、ピーター・ゴールウェイ、NRBQ、ハース・マルティネス、MFQ、ロジャー・ティリソンほか多数の来日ツアーを手がける。
80年代末にヴィレッジ・グリーン・レーベル(ポニー・キャニオン)をスタートさせ、海外アーティストのレコード制作に携わる。98年からは、ドリームズヴィル・レコードのレーベル・プロデューサーとして、数多くのアルバム制作を行なっている。以上の仕事の傍ら、70年代から現在まで、数多くの洋楽アルバム/CDのリイシュー企画監修、アート・ディレクションを行い、その総数は1500タイトル以上。2015年8月にはパイド・パイパー・ハウスが期間限定で復活し、連日大盛況となった。現在、音楽番組「ようこそ夢街名曲堂へ!」(K-MIX)にレギュラー出演中。 著書に「魔法のBEAT」(MF WORKS)がある。また『レコード・コレクターズ』誌にて「長門芳郎のマジカル・コネクション」が好評連載中。7月にリットー・ミュージックから『パイド・パイパー・デイズ 私的音楽回想録 1972-1989』が出版。