短編小説
「オオツキ」
脱げない。無理矢理脱ごうとすると全身に激痛が走る。なぜ、なぜなんだ。
俺も悪いといえば悪い。今思えば悔やまれるほど浅はかな行動だった。ヤマリギターの工場見学に来てくれたラリーパパ&カーネギーママという大阪のバンドのギタリストが忘れたちぢみのシャツを何気に羽織って脱げなくなった俺は、今こうして県立総合病院へと向かっている。しかしこれはなんの症状なんだ。心配してくれた社長が県立総合病院に勤めている知人の心療内科の先生を紹介してくれた。この場合、心療内科の部門ではないような気もするが、しかしそういったあらゆる現代の医療でこの症状は治るとは到底思えない。もうこれは呪いの類いではないのか?なんなら病院などではなく、むしろ神社で祈祷してもらったほうがいいのでは、などと不安と焦りからか、なんの根拠もない思考が俺の頭をぐるぐると駆け巡った。俺は今一度肩をそっとくねらせ脱ぐ態勢をとった。
「はあァァ!」
やはり先ほどと同じように全身に激痛が走る。いや、さっきより痛みが増したような…
(なんなんだ…)
俺はぐっと叫びたい気持ちをこらえ唇を噛んだ。口の中に鉄の味が広がった。ヤマリギターの工場を背に山の中腹あたりまで歩いて20分ほど、広大な敷地面積を要した総合病院へとたどり着いた俺は、重厚なガラス張りの自動ドアが歪なモーター音と共に開くと、他には目もくれず総合案内と壁に書かれた受付へと向かった。受付には紺の事務服を着た女性が二人並んで座っている。俺は一番近くの受付に声をかけた。
「あの…」
俺は症状が症状なだけに戸惑って声を詰まらせた。だが、そんな悠長に構えてもいられないと切迫した現状が後押ししたのか、血の気が引くような冷静さを感じながら再び受付に話しかけた。
「あの、先ほど電話したヤマリギターの満畑と申しますが、心療内科の高嶺先生はいらっしゃいますでしょうか?」
「はい、高嶺ですね。先生から伺っております。先生に来院されたことをお伝えしますので、その前にすいませんがこちらにお名前ご住所、ご連絡先をご記入してください。あわせてこちらの問診表にもわかる範囲で結構なので症状などをご記入してください」
「あの…」
俺はこの症状をどう問診表に書いていいのやら皆目見当がつかなかった。口で説明するのさえどうすればいいのかまったくわからない状態なのに。
「あの、問診表なんですが、直接先生に症状をお伝えしたいんで記入は控えたいんですが…それって可能なんですかね?」
俺はおもむろに受付の女性にそう告げた。
「はい、あ、そうなんですね。ええ、はい、大丈夫ですよ…」
日々の習慣なのか、はたまたそういったリクエストをする患者が少ないのか、彼女は少し慌てた素ぶりを見せるも、すんなりと俺の申し出を受けてくれた。
「ではこちらのお名前とご住所と連絡先の欄だけで結構ですので….」
彼女がにこやかにそう言いながらデスクの電話の受話器を取った。俺は受付のカウンターで彼女が言った通りに住所などを記入していった。
「ええ、そうです。オオツキ様が、すいません、満畑様がお見えになって…」
オオツキ?社長も同じように俺の名前を間違えた。あのシャツを着てからだ。
「オオツキくん…違った満畑くん、今日はもういいから私の紹介する病院へ行きなさい…」
「病院、ですか?」
「オオツキ…いや、満畑くんも知ってるだろ、あの山手にある総合病院…」
こんな具合にあの時社長は俺の名前を間違えた。ヤマリギターに勤めてもう10年以上が経つ。今の今まで社長が俺の名前を間違えたことなどなかった。なのにあの時不可解にも俺の名前を間違えたのだ。
「オオツキ…失礼しました、満畑さん、3階の心療内科の診察室で高嶺がお待ちしております」
まただ、また彼女は俺のことをオオツキと呼んだ。俺はエレベーターに乗ることをやめ階段を使った。社長といいあの受付といい、なぜ俺をオオツキと。不可解な出来事が続いたせいもあって、俺は人目を普段より一層気にするようになった。階段の踊り場で患者と立ち話をしていた看護師から高嶺先生がいる心療内科の詳しい場所を聞いた俺は、診察室の前までたどり着くと恐る恐るドアをノックした。
「はい、どうぞ」
俺はゆっくりとドアを開けた。
「失礼します。ヤマリギターの…」
「ああ、社長から聞いてますよ。どうぞお掛けになってください」
先生は俺に目もくれず机に向かい、何やらカルテに書き込んでいた。
「はい、失礼します」
俺は不安を抑えきれず前かがみの姿勢をとりながら丸椅子に座った。
「えーと、満畑さんどうなさいました…」
先生が俺の方に振り向いて驚愕の表情を見せた。
「満、えっ、あなた、あ、お、オオツキ…」
「……」
俺の首筋あたりから電気のようなものが走り、全身の自由が効かなくなった。
「オオツキ教授!あなた、今までどこに…」
高嶺先生がぐっと俺に迫ってきた。
「えっ、い、いえ、僕は満畑です…」
俺は何がなんだか…
「あの研究は、あのギターを使った研究は…」
「え、いま、なんと?な、何です?」
俺は後ずさりして丸椅子から転げ落ちた。
「忘れたんですか?高嶺です!私も初期の段階の研究に関わったんですよ。あ、あの音の開発は進んでいるのですか?」
高嶺先生が俺の肩を力一杯掴んだ。俺は何がなんだか…
「オオツキさん…」
(俺は満畑、俺は満畑、俺は満畑、俺は満畑…)
何度も心の中で唱えた。俺はあまりの気持ち悪さに高嶺先生の両腕を払いのけて、即立ち上がり逃げるように診察室を出た。
(俺は満畑、俺は…)
俺はアパートに帰り布団へ潜り込んだ。もちろんシャツは脱ぐことなく。そのまんまで眠りについた。
朝、目が覚める。夢か、ああ、悪い夢だったのだと思い、俺は布団をはねのけた。が、あのシャツをまだ着ている。「はは、悪い冗談!」と独り言を言いながら俺はシャツを脱ごうとした。
「ぎゃあああ!」
今まで感じたことのない激痛が容赦なく全身を駆けた。
「か、はあああ、チクショー!」
俺は悔しさのあまり畳の上で大の字になり、天井を見上げた。
「……腹が、減った」
俺はゆっくり起き上がり財布から千円だけ取り出して外へ出た。まだ早朝なのか人気の少ない通りを、俺はとぼとぼと歩いた。やがて商店街の目抜き通りに差し掛かるとコンビニが見えてきた。
「とにかく、食おう」
俺は本能的な食欲だけで歩いているような気がした。
「オオツキ教授…」
俺の背後で声がした。確かに<オオツキ>と聞こえた。俺は一瞬立ち止まったが振り向くことなく全力で走った。
「オオツキ教授、オオツキ。確保!確保!」
「確保」と確かに聞こえた。そのせいか俺は、恐怖のあまり空腹を苦もせず全力で走った。しかし電柱の影からガタイのいい別の男が即座に行く手を阻む。俺はそのまま踵を返すことができずにその男と衝突した。カーッ…と無線のノイズが聞こえた。
「オオツキ教授確保!オオツキ教授確保…」
電柱の男が連呼した。俺は衝突の衝撃でそのままうなだれて意識を失った。
「オオツキ教授、オオツキ教授…」
「……」
電柱の男とはまた別の男の声だった。俺はゆっくり意識が戻るのと同時に目を見開いた。俺は車の後部座席に横たわっていた。
「探しましたよ、オオツキ教授…」
「い、いや、俺は満畑…」
俺は意識が朦朧とするなかそれを否定した。
「何を今更、とぼけても無駄ですよ。あの研究に我が社がどれだけつぎ込んだか。あなたは自覚してないですな…」
俺は何がなんだか…。しかしもうこうなったら焼きくそだと思い、俺はそのオオツキに成り切ろうと腹をくくった。
「へっ、すまないな。なんせ覚えが悪いたちでね。で、あんたらが声高々と謳う研究なんだがね。俺はその研究から手を引いたんじゃないのか?」
「またまたご冗談を。あなたは我が社アマテラス製薬の出資でサウンド・メディスンの開発を進めていらしたんですよ。音による精神疾患の特効薬を開発していたんです。あの研究は最終段階に入っていた。量子コンピュータと、あのヤマリギターMH-1122を使って…なのにあなたは途中で研究を放り投げて失踪したんですよ。もう、何年になるのか。教授、バカンスはもう終わりです。巻き返しを期待していますよ」
MH-1122?……ははっ!思い出した。
俺が最初に品評会へ出展しようとして作ったギターだ。俺の作ったギター!そうか、あのギターは確か何年か前に社長が知人に売っていいかと聞いてきたことがあった。その知人というのはあの心療内科の高嶺に違いない。そうだ、確かあの時医者の知人と言っていた。そして俺はそれを承諾したんだ。かなり意気込んで製作したが、あのギターは俺自身あまり納得するものじゃなかった。そうか、あのギターはそんな使われ方を。なるほど、あれは俺が思い描いた音は出なかった。不完全だった。だから、だからオオツキという教授はその研究を遂行することができなかったんだ。だけど、今なら、今なら…。
「はは、すまないね。もうリフレッシュは済んだよ。サウンド・メディスン、完成へと拍車をかけるとしようか…」
俺のギター職人の血が沸々と湧き上がり全身を駆け巡った。こうなったらオオツキとして研究を完遂させてやる。そうだ、ひょっとするとこのシャツは完成したサウンド・メディスンを使って脱げるかもしれない…。俺は絶望から一転するように顔から笑みがこぼれていた。
「しかし腹が減ったな…」
俺は空腹のせいか無意識のうちに腹の方に目を落とした。シャツの裾あたりに洗っても消えないように油性マジックで<オオツキ>と小さく書かれていた。